宇宙の如く私語するぷふぃ

ほれ、聞いてみろ。そこにはまだ呟きが聞こえるのだ。

おりんぴっく

2020年東京オリンピックって誰が喜んでいるのだろう?少なくとも、東京圏で働いている人は「おいおい変なトラブル増えるんじゃね?とか通勤電車大丈夫かな?」とかの不安の方が大きのではないだろうか?

 

経済効果も微妙らしいし・・・(とどまる事をしらない予算に愕然としませんか?)。

結局税金使って大きいお祭りを世界のためにやるという、たんなる「おもてなし」=サービスでしかないってどうなの?

各種業界を超えたマクロ的な所で経済効果がなく、「おもてなし」いいじゃない!

日本は経済大国だし、世界をおもてなすのはむしろ義務でしょ!くらいの話であるのなら、国連でお金集めて、発展途上国で開催すればいいのでないだろうか?

 

それで、もうオリンピックの記録は選手たちの公式記録としては採用しないということにしてさ、本当にスポーツの祭典とすればよいのではなかろうか?その方が平和の祭典というにも相応しいと思う。

 

公式記録として認めるから、最上級の施設が必要となるので、結局先進国でしか開催できないのだ。たんなるお祭りなら、たとえば施設でもオリンピックが終わったあともその地域の人が使える程度のもので十分なのだ。そして選手もたとえばその国の現在最高の人を選出するのではなく、その国のレジェンドを選出したり、若手の有望株の世界へのお披露目とか、若手の国際舞台慣れに活用するとか、それで十分でない?

 

年末の紅白歌合戦を見れば、別にガチンコ勝負じゃなくても盛り上がることは可能だって判明してるのだから、真の意味でお祭りのスポーツでもきっと視聴率とかとれるよ!あるいはスケートのエキシビジョンとかさ。

そうすればパラリンピックももっと盛り上がれると思うよ!なんかもうオリンピック/パラリンピックの垣根を越えて何かやるとか・・・。

たとえば陸上のリレーをオリ/パラ選手の合同にするとかさ。

 

きっと今のままのオリンピックだと、かつてナチスがお国自慢にオリンピックを利用したのと同じような形でしか、活用できなくなるのではなかろうか?

うまれかわり

ちょいと前にアニメのまどマギが流行りました。

知り合いがお気に入りらしく、大絶賛していた。

ラストが特にお気に入りらしい。

(ネタバレ注意)

主人公の女の子が能力と引き換えに願ったことが、自分と同じようにあくどい取引にかかる女の子がこの世から消えますように・・・とさ。

能力をあげる側は、「そ、そんな大層な願い、もはや君は存在を超えて概念、つまり神になるということだぞ!」と驚きつつ願いを叶え、主人公はお星様となりおんなのこたちを見守る概念となりましたとさ。

 

で、この「存在を超えて概念になる」というくだりがハートを射抜いたらしい。

で、自分はそういう発想はとっくにしてたさ、ふふん。と言って白い目で見られた。

いや実際はそんなこと言わずに、まあ、そうっすなー。凄い・・・かな?とお茶を濁した。

 

長々エピソードを紹介したのは前世のことを考えていて、本当にまどマギの10年前くらいに概念になるということを考えていたのだ。

 

きっかけは前世って腹が立つなあと思っていて、前世はなんかすごい人だったと言われて喜ぶのがなんだか嫌だな、と。

というかなんか生まれ変わっても人間ってちょっと嫌だな、とか思いまして、どうせならてんとう虫に生まれ変わるとか、アメーバに生まれ変わるとかとの方が面白い気がするなあ、なんて思っていた。

で、もっと自由に発想を広げて風に生まれ変わるとか、海に生まれ変わるとか・・・。遥か以前に宇宙を飛び、どこかの名の知らぬ星にぶつかり果てた隕石の生まれ変わりとか・・・。

 

でで、もっと発想を緩めて、もういっそあるときに流行した流行語とか、今はもう誰も知らない誰かの概念とか・・・、どっかの誰かのプロポーズの生まれ変わりとか・・・。数の生まれ変わりとか、空間の生まれ変わりとかだったら面白いなあ、なんて思っていた。

 

というわけで、神様に願うことが「概念になること」なんてことでは感動が欠片も生まれなかったのはショウガナイことでしょう。皆様はどうなんでしょう?坂本龍馬の生まれ変わりだの、ジャンヌ・ダルクだのなんだので喜べるでしょうかね?

 

 

かたりくち

各人には各人の好みの語り口がある。カタリクチ、大事。

誰が、いつ、どこで、どのように説得するかで、受け手の印象がガラリとかわるよね。

たとえば駅のホームに保護柵を取り付けようとする。どんな語り口があるだろうか?

①弱者の保護は当然である。(こういう語り口は「弱者」の中身も「保護」の中身も重要になってくるから注意が必要だ。例えば飢餓線上にある子どもたちに食料を!と言えば、実際に送金や輸送するかどうかは置いといて、「え~?」と言える人は相当少ないだろう。弱者という抽象語は「誰」を特定しないから、賛成も得やすいが、反対も得やすい。近時は拒絶反応起こす人の方が多いのではないだろうか?)

②ホームの安全は電車遅延等が改善され、みんながハッピーです。(弱者もハッピー!強者もハッピー!)

③電車のダイヤの修復は多大なコストを要するので、それが改善されれば、人件費の節約等、コスト改善に役立ちます。

 

で、何が言いたいかというと、案外自分の好みの語り口って自覚されていないことが多くて困るなあ、と思うことがしばし・・・という愚痴。

誰かがぼくにいい事を言ったとしても、内容には賛成しても語り口にはゲンナリ、とか。逆にぼくが自分の思いを話しても伝わらないとか・・・。

何かを議論するときはこの辺の自覚は大事だと思う、が、なんだかなあ、という愚痴。

 

 

 

 

 

 

 

しほんしゅぎ

資本主義って何?

市場を肯定すると資本主義?

それとも市場の使い方の話しなの?

さらに言うと、資本主義は貨幣をどう考えているのだろう?

市場どころか、貨幣を肯定すると資本主義なのだろうか?

 

まとめ

①貨幣の是非

②貨幣を肯定するとして、その使い方、あるいは規制の仕方

③市場の是非

④市場を肯定するとして、その使い方、あるいは規制の仕方

 

さて資本主義は以上のマトリクスのどこに位置するのだろう?

実はこの概念(資本主義)を肯定するにしろ否定するにしろ、みんな整理せずに振り回しているだけなのではないだろうか、と思う今日この頃。

共産主義という概念もそうだけど、本当にわけがわからん。

 

あるときは、共産主義VS民主主義・・・。あるときは共産主義VS資本主義。

今のところ、民主主義VS資本主義という構図は聞いたことがない。

 

ローマ史の研究家によると、民主主義も共産主義も共に古代ギリシャ発祥の概念/システムとのこと。

つまり、古代ギリシャでは、共産主義かつ民主主義であったのだから、そこから言うなら、民主主義VS資本主義という構図も十分ありうる話。とまあ、現在○○主義の中身が謎だから、対立図式も謎だらけだ。

 

まいんどこんとろーる

いわゆる「北朝鮮」の報道で毎回毎回、将軍様将軍様マインド・コントロール、マインドコントロールうるさいなあ、と思うのだ。そもそも「将軍様」って翻訳的にどうなのだろう?金一家の血筋は王権神授説に立たないだろうから「王様」とか「天皇」とかでないのはわかる(英語に訳したら「KING」でないのは間違いない)。じゃあ、それ以外の独裁者ヒトラーとか毛沢東とかレーニンとか)であれば大抵「総統」とか「総書記」あるいは「議長」なんて訳語があてられてるけど、「将軍様」は(確信犯的な)誤訳に近いのでは?(誰か朝鮮語に堪能な方ご存知ないかな?例えば英語ではどう翻訳されているのだろう?「将軍様朝鮮語)」⇒「英語」⇒「日本語」=「将軍様」になるとは思えないんだよな・・・)。別にどうでもいいけど気になる・・・。

 

さてさて、マインド・コントロール(M・C)の方、これ如何?「教育」と「M・C」の線引きはどうなっているのだろう?「脅迫」と「M・C」の違いはわかりやすい。というか「脅迫」は「相手の意思に反して」ないと、もはや「脅迫」ではない。

「強制」かどうか?子どもに対する「教育」は大概「強制」ですよね?「ぼく、友達とお外で遊ぶより、宿題の方がだ~いすき!」なんて子ども、いていもいいんだけどさ、けどちょっとその子の将来って心配になりません?

じゃあ「目的」の是非?でも何がその子/その人のためになるかは大論争が勃発しますよね?「あなたの心の平安のために」なんて近寄ってくる人はおっかないでしょ?最低限のコンセンサスをフィルターにする?ほとんど「挨拶」くらいしか「教育」できなくなりますよね?「数学なんて大人になって何の役にたつの?」という技術系の仕事に就かない人からの疑問にしどろもどろにならずに答えられる人がどれくらいいる?芸術は心を豊かにする?本当に?あるいはこれらを廃止して他のことを教える?簡単にコンセンサス形成できてたらとっくにやってるよ誰かが。

「自己保存」や「種族保存」に反してたらダメ?じゃあ今すぐ「忠臣蔵」は発禁処分にしなきゃ。「忠臣蔵」を美談で語ることは「M・C」でありますれば、せめて18禁にしなきゃ。「神風特攻隊」なんてもってのほかですよ。

じゃあ、押し付ける側の目的「+善意」?全然フィルター/線引きの用をはたしてませんね。「M・C」だってこの条件をクリアできてしまう。

じゃあ、「手段」か?これはちょっと線引きになりそう。麻薬を使う、恒常的な暴力の背景、等々。でも全然十分ではない。しかも「脅迫」に近づいてきますね。いじめられっ子の方がむしろ「これはいじめに非ず。遊びで候う」とかたくなに主張する感じ。

 

というわけで、「教育」と「M・C」の線引きってさ、結局自分たちが「嫌いな奴」の教えであるとか、「嫌なこと言ってる」というように個人個人の主観なのでは?要するに「嫌いな奴/嫌いなこと」ありきなんでしょ?

でもその「嫌いな奴/嫌いなこと」がそもそも「M・C」だったりしてね。

「いやいや、これは完全に自分の意思であり、主観であり、合理性もある」?

「M・C」受けている方は皆様そう仰るんですよ~、残念。

え?「M・C」受けた記憶がない?あれはただの授業だった?

残念。「北朝鮮」の子も同じことを申しております。

 

ε=(・д・`*)ハァ…やれやれ、もうどっちでもいいよ、と思いましたでしょ?私もそう思う。変なカタカナ英語と色分けはとっくにお腹いっぱいだよ。

 

 

 

 

とっこうたい

父親から「息子よ、お前は神風特攻隊を知ってるか?」と問われたので「もちろんさ、父さん。自爆テロのことでしょ?」と返してみる。当然、つめた〜い視線が返ってきた。

 

いや、どう考えても自爆テロのことでしょ?その規模が小部隊規模であったとか、指揮命令系統に従った作戦だったとか、国家の軍隊が遂行したとか、そうでないかとか、標的がどうとか、そういう微細な差異(の省察が重要であることを強調する必要があるだろうか?)をひとまずかっこにくくれば「イコール」の等記号で両者を結ぶことはむしろ当然であり、微細な差異の省察のためにも必須な作業であると思う。

 

とういうか特攻=自分達(日本人)に貢献)/自爆テロ=自分達(日本人等)に不利益というカテゴライズしてるから、「特攻は賛美するけど、自爆テロは許さん!」なんて平気で言えるんじゃないかな?だっていわゆるウヨクならいいそうなものじゃないですか?「彼らのやってることはけっして許されるものではないが、だが、彼らの自己犠牲精神は、欧米流のジコチュー主義に毒された今の日本人が忘れたものを思い出させてくれるものである」とかね。

 

で、実際自分なんかも「妻子のためには命をかける」というノリが大好きだったりするので始末に困る。というか古今東西、そういった自己犠牲精神は黄金テーマでしょ?さらにさらにいったら、人類を超えて、およそ「類」のための自己犠牲精神は(たとえば子どものために命をかける動物たち)散見されるわけだし。

 

で、何がいいたいかというと、自爆テロの特攻者とか、神風特攻隊の特攻者を「クレイジー」の一言でかたずけるのに「?」の二つも三つもつけたくなるな、ということ。勿論中には、いろいろな特攻者がいたでしょう。そりゃ人数が多いもの。それで中には本当に「クレイジー」としかいいようのない人たちもいたでしょうよ。ただし、それは解釈を容易に受け付けないという意味でだ。「妻子のために死ぬ」のが正しいわけでもない。そんなの「正しいセックス」を定義するくらい馬鹿げている「子作りのためのセックス」は正しくて、「自分探しのためのセックス」や「快楽のためのセックス」はクレイジーですか?そういうカテゴライズこそ「クレイジー」ではないですか?

セックスの比喩を使うなら、あるのは「よい/わるい」ではなく、せいぜい「マニアックかどうか」という違いでしかない。

「祖国や妻子のため、あるいは教義のため」に自爆テロを行おうが、「自分探しのため」に自爆テロを行おうが、どちらも「自己保存」という観点からは十分「クレイジー」でしかないのだ。違いは皆無である。

 

さて、「自爆テロ」や「特攻者」をクレイジーとか、マインド・コントロールの被害者として、自分とはかけ離れた存在として隔離しておくことはおそらく二重に人間存在の冒涜を犯すことになるだろう。つまり、職務に忠実な殺人「イェルサレムのアイヒマン」の問題とそれを省察する我々の問題。彼らの「思考停止状態」をたんなる「バカ」と呼ぶことは現在の我々こそ「思考停止状態」であるとの謗りを免れぬだろう。

「彼ら」を「クレイジー/被害者」とか「バカ」とか呼んで「笑殺」してるうちは過去の亡霊にいつまでも祟られるしかない。あるいはマルクスやらマルクーゼの亡霊でも召喚してみようか?いや、くどすぎるのでやめておこう。やめておく。

「同情するなら金をくれ」

もうけっこう昔になるんでしょうね。赤木智弘氏の「丸山真男を・・・」論文が世に出され、それが、世間(?)に波紋を呼んだという言う話し。

読んでないけれど、偉そうなこといいます。ごめんなさい。的外れなら(的はずれでなくても)読まずに偉そうなこと言えるようなバカな奴と無視してください。

 

さて、読んでないけど、きっと、この論文で言ってことって「同情するなら、金をくれ!さもなくば、自爆テロも辞さない!」と言ってるだけなのではないだろうか?やれ戦争が云々なんて、枝葉末梢なんでないの?それで、これに反論した人たちの慌てふためき方は愉快なこと。

しかしこの「同情するなら金をくれ」というテーゼのなんと強烈なことか!おそらくこれに「どう反論しようか?」と考えただけで、少なくともサヨクは名乗れないでしょうね(いや、むしろウヨクの方かな?同国人が嘆いているんだからね。おそらくこんな困った奴は同国人と認めない、とウヨクは開き直るしないよね。)。

個別具体的な貧乏人=赤木智弘氏と抽象的一般的貧乏人=貧乏人Aさんの問題と、そして個別具体的な金持ち=たとえば、たぶん丸山真男先生とか(?)、そして抽象的一般的な金持ち=国家(?)の誰が金を出すかという問題とひとまず整理できるのかな?

で、たぶん赤木氏に反論したような人たちは、個別具体的な赤木氏は救いがないし、個別具体的なこの私は直接的には金をださん!となるでしょうね。う~ん、難しい(ちなみに100%どうでもいい話だけど、このブログを書いてる当人だって年収200万以下だし、赤木氏の言で言えば、十分「金をくれ」「仕事くれ」ってなもんだけどさ。)

 

・・・う~ん、やっぱ「同情するなら金をくれ」ってテーゼは重い。

個別具体的な貧乏人に金を寄付すればいい問題じゃないし。

じゃあ、格差社会の構造が問題なのだから、個別具体的な赤木氏(もしくはpicolight氏)はどうでもいいよ、って話しでもなんか違うような気がするし・・・。

誰かこれをテーマに新書でも書いてくれないかな?